野口英世の恩師 小林 栄はどんな人

野口英世 筆 小林栄肖像画

小林 栄こばやしさかえは、1860(万延元)年に現在の福島県猪苗代町いなわしろまちで生まれました。
野口英世の生涯の恩師として知られ、「英世」という名前に改名を薦めた人物でもあります。
青少年の育成に尽力し、戊辰戦争ぼしんせんそう荒廃こうはいした郷土の復興に貢献こうけんされました。
ここでは、そんな小林 栄についてご紹介します。

郷土の復興には子弟の教育が大切

猪苗代で教員になると決心する栄

明治戊辰戦争で荒廃した郷土の復興には、子弟していの教育が大切だと考えた小林栄は、1876(明治9)年に新しくできた師範学校に入学しました。
1878年(明治10)年18歳の時、首席で卒業した栄は、県都である福島町(現福島市)での勤務を勧められましたが、「郷土の復興のために働きたい」と猪苗代小学校に勤務、その後、隣村の千里ちさと小学校に転勤、あわせて35年間、地方の教員として子供たちの育成に努めました。
栄は教育においては、学校教育より家庭教育を重んじ、家庭教育より胎内教育が大切であると考えていました。
また、学校教育の上には社会教育があり、自然教育がある、人間は生涯教育を受けるものであるとも言っていました。

千里小学校卒業記念

千里小学校卒業記念(前列中央が栄)

猪苗代小学校の教員たち

猪苗代小学校の教員たち(前列左から2人目が栄)

地域の発展に貢献

自宅に気象観測施設を設ける

栄は、農村生活の改善の指針をしめした猪苗代地方の「村是そんぜの歌」を作り、自宅には気象観測施設を設け、気象台との連携れんけいのもと農業生産の改善をはかりました。
そのほか、1888(明治21)年に大爆発を起こし、大きな被害をもたらした磐梯山ばんだいさん噴火やその後の二次災害などの研究をし、復興に貢献しました。

また、文化財の保護や磐梯山・猪苗代湖周辺の国立公園指定の提起、さらには、青年会、婦人会の活動、神社仏閣の復興にも力をつくし、地域の発展に貢献しました。

採れた野菜を前にして

採れた野菜を前にして(右から二人目が栄)

小林栄が東洋学芸雑誌に掲載した磐梯山噴火の図

小林栄が東洋学芸雑誌に掲載した磐梯山噴火の図

野口英世との出会い

小林宅を訪ねる清作と母シカ

栄は、野口英世が学んでいた三ツ和小学校へ試験官として行った時、英世の才能を見出し、猪苗代高等小学校への進学を奨め支援しました。
また、英世の猪苗代高等小学校4年間担任となり、英世の手の手術をすすめ、生きる目標を与えました。

高等小学校を卒業してからも医師を目指して苦学していた英世を励まし、渡米するにあたっては英世が心配していた残していく家族についても、栄は英世と父子おやこ契りちぎりをして野口家の面倒や英世への助言をしみませんでした。
遠く離れていた英世とは、手紙でのやり取りを通じて深いきずなで結ばれ、アメリカで研究する英世のいしずえとなりました。

大隈重信私邸を訪ねた英世とともに

1915(大正4)年、大隈重信私邸を訪ねた英世とともに(右端が栄)

私立猪苗代日新館の創設

猪苗代日新館で講義する栄

栄は徴兵検査ちょうへいけんさの学力試験にたずさわり、試験問題が尋常じんじょう小学校卒業の者でもやさしかったにもかかわらず、そのほとんどが解答されていなかったことに衝撃しょうげきを受けました。
この時、高等教育の学校が必要だと実感し、私立猪苗代日新館いなわしろにっしんかんを創設し多くの卒業生を世に送り出しました。日新館の名前は、会津藩校あいづはんこう「日新館」の精神をもって教育の指針とすることを念頭につけたものです。

猪苗代日新館の教育の理念は、第一人間、第二健康、第三学問としました。農村青年の教育を念頭においていましたので、農閑期のうかんきだけ通学できる制度も取り入れ、遠くから通う生徒には宿舎も用意しました。

猪苗代日新館の校舎

猪苗代日新館の校舎

野口英世記念館の創設に尽力

野口英世記念館開館式で挨拶をする栄

 野口英世が1928(昭和3)年、アフリカのアクラで黄熱病研究中に感染し、51歳の生涯を閉じました。
突然の訃報ふほうに栄は悲しみましたが、愛する弟子のため英世の遺志を後世に伝え、第二、第三の野口英世を生み出そうと考えました。
その年に開かれた追悼会の席上での野口英世博士顕彰会と野口英世記念館の創設が決められましたが、その中心となり行動を起こしました。

まず、英世の働いていたニューヨークのロックフェラー財団とロックフェラー医学研究所、また野口メリー夫人に英世の遺品の日本への送付を依頼しました。

遺品はただちに栄のもとに送られてきて準備は整ったのですが、記念館を建設する資金集めに時間を要し、ようやく1939(昭和14)年に念願の野口英世記念館が開館することができました。

しかし、栄は翌年に、80歳の生涯を終えることになります。

野口英世記念館内に建立した「救世観音堂」の開眼供養後の記念写真(前列右が栄)

野口英世記念館内に建立した「救世観音堂」の開眼供養後の記念写真(前列右が栄)

俊夫人との二人三脚で地域の信望を集める

栄と俊の結婚

福島師範学校を卒業し教員となった時に、同じ猪苗代の武士であった坂綱ばんつなの娘・しゅんとの縁談がきまり結婚しました。栄19歳の時でした。
俊夫人はとても働き者で、養蚕ようさんや園芸、養鯉ようりなどを行い栄が教員の仕事に専念できるように家計を支えました。
また、夫人は、栄の教え子の面倒をよく見てわが子のように接しました。
高等小学校へ進学する野口英世への支援も、俊夫人の助言があったから実現したとも言われています。
渡米する英世には、養蚕で稼いだ一年間の売上をそっくり贈ったのも夫人でした。

また栄は夫人を深く愛していました。夫人が病気をした時に、寒さを緩和したいとこの地方ではめずらしい朝鮮式のオンドル、今で言う床暖房を設置したりして、看病にあたりました。

栄が古希こき(70歳)になった時のお祝いには、猪苗代町内外から猪苗代小学校講堂に500人からの人々が集まり、栄の人柄を知ることができます。

小林栄と俊夫人

小林栄と俊夫人

小林栄の古希祝賀会に参集した人々

小林栄の古希祝賀会に参集した人々